なるべくなら心穏やかでいたい

難しいことは言えません。思ったことを好きに綴ります。争いごとは好きじゃないです。

未来を変えられる人

先日の息子の参観日でのひとコマ。

 

小学校に入学してから隔月くらいで参観日がある。

悲しいかな派遣社員、時間で有給を取ることができず、家計のため全ては参加できず。

一方夫は時間休が取れるので、今回も夫に行ってもらった。

 

道徳の授業で「優しいとは何か」を考える内容だったようだ。

最初に本質を問いかけ、ピンと来てない子どもたちにある物語を話し、その後また優しさとは何かを問いかけるという構成。

途中でした話というのが、自分より小さいものに乱暴していた狼が、自分より大きい熊に出会い優しくされたことで、自分もこれまで乱暴してた相手に優しくなったというものだったそうだ。

 

話を聞いて、考える子どもたち。

そして最後に先生が問う。

「優しい人ってどんな人?」

 

それの発表者として当たったのが我が子。

息子が答える

「未来を変えられる人」と。

 

(ここで夫は笑いをこらえるのに必死だったそう)

 

教室キョトーン。

しかし先生はプロ、上手に内容を引き出してくれた。

 

息子が言いたかったのはこうらしい。

 

乱暴者だった狼は、熊に出会わなかったらずっと乱暴だっただろう。でも、優しい熊に出会ったことで自分も変わった。人の「悪い」を「良い」に変えてくれる影響力がある人が優しい人なんだ、と。

 

「未来を変えられる人」って突拍子もない答えのようで、実は息子なりに考えて出した答えだった。

 

母は笑った。やっぱりあいつ、一筋縄ではいかないな、と。

と同時に「未来を変えられる人」というのを考えてみた。

この言葉だけで優しいとイコールになるかというと、そうではないと思うのだけれど、それを「未来を(良い方へ)変えられる人」となると近くなるような気がする。

 

人の未来を良い方へ変えようと思ったら、たぶん言葉だけじゃ足りない。

その人自身のやっていることに説得力があったり、芯がある人だと認識しているというベースがあってこそだと思う。

 

私自身、この人みたいになりたい!と思える人がいるが、数としては実はそんなに多くない。

友達として出会った人というよりも、ちょっと年上の素敵なお姉さんにその憧れを抱くことが多い。

そういう人は、きまって優しい。

ここでいう優しいとは具体的には、自分の芯を持っていて、やりたいことをやっているが、ものすごく周りに配慮していて(しかもそれを表立っては見せない)、基本笑顔で過ごしているということ。

 

その人の行動が、自分を反省させてくれる。

今こうして文字を売っている間に最近の自分がその憧れからかけ離れているということに気付き、猛反省している。

 

 

優しい彼女らは、確かに私の未来を変えてくれる(もちろん本人は意図してないのだけれど)人だ。

 

息子が考えた「優しい人」は、母にとっての優しい人とも同じだったよ。

 

未だに自分の腹から出てきた個体が、意思を持って発言したり行動したりするのに驚いてしまうことがある。

もうすぐ分離して7年になるのだから、そろそろ慣れてもいいのに。

自分とは別の人間である、というのが悲しいのではなく、むしろ嬉しいことなんだけど、どうしてもまだ新鮮に感じてしまうのだ。

 

どうかこれからもたくさんのことに触れ、考えて、君ならではの感性で自分なりの意見を持てるようになってください。

 

そうやって成長に触れるたびに母はまた新鮮な驚きを感じさせてもらうから。

 

優しいとは、何か。

ふいに我が家にやってきた道徳の時間。

優しいとは何かを考えさせてくれた息子もまた、私の未来を変えてくれる人であるようだ。

オシャレな人種にはなれそうもない

先日、家族でイベントに出掛けた。

いわゆる食イベントなのだが、地元だけでなく県外からの出店者もあり、またそれが根強いファンのいるこだわりの店だったりするので、食イベントにありがちなチープさが感じられないという珍しい催しで、私は毎年楽しみにしている。

 

私と同様に感じている人がたくさんいるようで、毎回会場は人でごった返している。

その日ばかりは、地元が東京になるのだ。

田舎者なので、人が多いという表現が「東京」になるのは許してほしい。

 

そんなリトルトーキョーである会場なのだが、やたらとオシャレな人がいる。

普段どこに隠れてるの?っていうくらい、オシャレな人が集まる。

オシャレって何?って感じだけれど、自分でも定義がよくわからないけれど、この会場にいると私は、すれ違う人の多くを「オシャレな人だ」って思ってしまうのである。

 

出店者の価値をわかって楽しんでいる人、DJが流す音楽に自然と乗れてる人、奇抜な格好をしている人、メイクが上手な人、凝った髪形をしている人…これらは私の中で「オシャレな人」だ。

 

たぶん、自分にないものを持っている人をそう感じてしまうのだろう。

 

自分のオシャレ偏差値の低さにはあきれる。

40年近く生きていて、センスが良いものとかオシャレなものとか、何もわかっていないのだ。

センスが良い、とかオシャレ、とかそういって紹介されているものの本当の良さを理解している自信がない。

世間一般に「オシャレ」と言われているから自分もオシャレと感じているのではないかという疑心暗鬼から抜け出せない。

 

その割に、何故か「オシャレなものを知ってそう」というイメージで見られることが少なくない。

これまでの職業柄、地元のことを普通の人よりも少し多く知っているというのは自分でもわかっている。

たぶんそれが「物知り」というイメージになっているのだと思う。

 

しかし私はオシャレではないのだ。

確かにオシャレなものに憧れはあるし、自分の生活に取り入れられるものがあれば挑戦はしている。

しかし、それはあくまで似非。

オシャレと言われる自分になりたくて、オシャレの真似をしているに過ぎない。

オシャレごっこなのだ。

 

自分のやっていることが「オシャレごっこ」だと自覚してからは、オシャレコンプレックスが少し楽になった。

オシャレと言われているものをミーハー心から追いかけているだけだというのは自分ではわかっている。

でも、それを恥じることはない。だって「ごっこ」なのだから。

なりきったもの勝ちだ。

 

だって、会場で販売しているドリンクや食べ物の味を、私は詳しく説明できない。

美味しいというのはわかるんだけど、「やっぱりこの素材だから深みがあるよね」とかそういう難しいことは言えない。

お試しで口にしたチョコレートがなめらかでとても美味しくて、欲しいと思ったけど、価格が4ケタで、躊躇してしまい、結局買えなかった。

 

本当の自分はそんなだけど、表面上は味の良さをわかってる風な顔をする。

高くてチョコレートが買えないなんて声に出して言わない(オシャレごっこ仲間である夫にはこっそりと言ったけど)。

会場になじんでいるふりをする。

他人から見たら浮いてると思われているかもしれないけど、今!私は!オシャレな会場で!オシャレに溶け込んでいる!と思い込んでいるだけで、イベントを楽しむことができるのだ。

 

センスとかそういう感覚的なことはよくわからないけど、一つ鎧を身に付けたことで、楽しめることが増えた。

オシャレになれないと嘆くよりも、ごっこ遊びをしていた方が心が健全だ。

もし今後あのチョコレートに出合ったなら、すました顔をして4ケタのお金を出せる自分でいたい。

それを次なる目標にして、これからも私のオシャレごっこは続く。

 

JRの帰り道はセンチメンタル

家族旅行をしてきた。

 

新幹線を使って東京へ(メインは大宮の鉄道博物館だけど)。

子連れの旅行は疲れる、だけど普段経験できないようなことだったり、見られないものを見るというのは楽しい。

本当に楽しかった。

 

ずっと会ってみたい、と思ってた人と会うことができて、それもすごくすごく嬉しかった。

この、会ってみたい、が実現した背景は、ブロガーとして参加させてもらっている雑誌の公式ブログが9月末で終了するから、ということによるものであって、それがなければ会いたいです、なんて言えなかっただろうな、と思う。

 

会えて嬉しかったのだけども、帰りの新幹線の中で、5年お世話になった場所が本当に終わるんだというのを強く実感して寂しくなっている。

 

終わるからこそ、初めて会えて、これからもよろしくお願いしますと言えて、本当に良かったと思っているのだけど、良かった、嬉しいという気持ちと、寂しいという気持ちはやっぱり別で。

 

ただなー、これはたぶんJRで帰ってるっていうのも大きいんだろうな。

 

田舎に住んでいる私は普段の生活が車なので、JRを利用することは滅多にない。

JRは特別な存在なのだ。

 

そして、帰り道は大抵切ない気持ちを抱えて帰る。

 

なんでだろう。

たぶん、昔好きだった人に会いに行って、あまり良い方向に進まなくて、帰りのJRも座れなくて、立ちながら泣いたあの時の思い出がどこかに残ってるからなんじゃないかと勝手に思っている。

 

JRを利用すると、私はどうしても終わりを意識してしまうのだ。

だから、ただの出張の帰り道も、楽しい旅行も、どんな時でも切なくなるんじゃないだろうか。

 

たぶんそうだきっとそうだ。

 

だから今回の公式ブログの終わりも余計に寂しくなっているんだ。

本当は、きっと、自分が思ってるよりも寂しくない。

 

そう思っておかないと、心の防衛ができないな。

 

正直、10月からこの裏ブログや表ブログを今まで同じように更新できるかはわからない。

でも、自分のやりたいことをするために、頑張らなくちゃなーというのもわかってる。

場所が変わっただけで、今まで通りの気持ちで…ってわかってはいるけど、気持ちが付いていくかな。

止まってはだめだってわかってるんだけどね。

 

5年間、いろんなことがあったよ。

環境も自身も変化したし。

たくさんの経験ができたし、出会いもあった。

やめようかな、と思うときもあったけど、自分にとって無くしたくないと思ってたから続けてた。

 

あーーー

やっぱりこれは自分の中で大きいことだぞ?

終了の日にちは刻々と迫っている。

だからJRのせいにしよう。

 

余計に切なくなっているだけだ。

日常に戻れば、きっと普通のこと。

 

帰り道だから、切ないんだ。

 

同級生から意地悪をされたという息子

息子が小学生になって、見えないことが増えてきた。

保育園みたいに、離れてる時間の様子を教えてはもらえない。

それはそんなもの、なのだろう。

保育園が手厚いだけだ。

 

それに、息子も自分の身に起こった出来事を逐一話すタイプではない。

 

きっと楽しく過ごしてるだろう、と思ってはいるが、それは単に楽しく過ごしておいて欲しいという私の願いのような気がする。

 

学童保育に迎えに行った帰り道、息子が言った。

「今日は楽しかったよ。意地悪されたけどね」

 

聞き捨てならないセリフ。

それでも、今しつこく問いただすのは違うと思って「何が楽しかったの?」と前半を拾って話を続けた。

 

結局、帰ってから落ち着いた時間に何があったかを聞いた。

学童保育で、意地悪をする子がいるらしい。よりによってクラスも同じだ。

押してきたり、殴ってきたり。

 

「おれ、弱いからさ。すぐやられちゃうんだよ」

息子は淡々と続ける。

 

「逃げることはできる?」

「おれ、すぐ追いつかれちゃうから」

 

確かに息子はのろい。

スローペースだし、自分の世界に入ったら他のことができなくなるタイプだ。

 

だからといって押したり殴られたりしていいわけがない。

 

息子には、大人に助けを求めていいこと、あなたにはとても良いところがあること、そいうことを話したと思う。

思うっていうのは、やっぱり少し動揺してしまったし、どう言っていいかわからないままの会話だったから。

 

そしたら、以前にも意地悪されたときに先生に言ったら、見守ってくれることになった、と報告された。

以前もあったんだと、胸が痛くなったけど、ちゃんと言えたね、偉いよと褒めた。

 

たぶん、性格的に息子はターゲットになりやすい。

のんびりしているし、自分から人に危害を加えるようなタイプではない。優しい子なのだ。

本を読むことが好きで、好きなものに対しての知識が多いから、たぶん、周りの子と話が合わないだろうな、と思うことも多々ある。

 

だからこそ、きっと外の世界では自分の場所を得られれば生き生きと動けると思う。

それに対して親ができることは、息子に合う世界を一緒に探すことなのかもしれない。

 

そんな風に意地悪をされたという息子だけれども、割りにケロッとしている。

親に怒られてもケロッとしているような子で、こちらからするとそれもまた怒りの種にになったりもするのだが、これもまた彼のいいところなのかもしれない。

帰宅して子どもを抱きしめるとき

新しい上司との関係性があまりよろしくない。

今年の4月にやってきて、事前にすごい人だと聞いていたのでいろいろと改革をしてくれるのだと信じていた。

きっと、良くなっていくのだと信じていた。

 

しかし蓋を開けてみると我が道を突き進む人で、まぁ周りの空気を読まない。

改革しようとするけれど、これまでのやり方をナチュラルに全否定。

周囲の人と関係性を構築する前に自分のやり方を通そうとするパターン。

 

上司以外のメンバーも変わり、私の相棒となる同じ立場の人もなかなかパンチの効いた人(担当の仕事をせず定時で帰り残業を押し付けられた)だったのもあって、年度初めから私はかなり疲れていた。

でもそのパンチの効いた彼女が「仕事が合わない」とすぐに辞めることになって、次に来た人が自分からいろいろ気付いて動いてくれる人で、ものすごく救われて、なんとか命が繋がれて楽になった感覚だったのだけど。

 

でも、気付いてみれば上司は何も変わっていないのだった。

 

もう疲れたよ。

こっちが気を回して助言することも(でもあまり聞いてない)。

時間外の来客にお茶を出せと言われることも(カップ自分で洗え)。

やるって言ったことを後で結局放置することも(何のためにしてるん)。

メールの中でビジネス横文字を多用することも(ルー大柴かな?)。

 

おかしいと思ったことは言わないと気が済まないので、たぶん私がいちばん反抗していて。

ああもうこれは今年度で契約を切られるぞという覚悟を持って仕事をしている。来年度からどうしよう本当に。

 

しかしだよ。

そのスゴイ上司に対して皆が上手いこと引っ張られてついてきているかというと、決してそうじゃない微妙な空気が流れているのだ。

それがしんどい。

 

数字的には上がっている。

だけど、そのやり方が正統ではない。

でも黒ではなくグレーなので、別に指摘はされない。

 

数字が上がっているのに、全体がまとまらず、周囲が引いているこの環境がしんどい。

彼のことを慕ってる人間もいるんだろうけど、もうよくわからない。

普通数字が上がったら部署のやる気も上がって、まとまっていくんじゃないの?

なんでうちはそうじゃないの?

 

上司はこの状況をどう思っているのだろうか。

全てわかっていて、そういう役をあえて演じているのだろうか。

そうであれば教えてほしい。

それをわかってるだけで、私がイライラしなくて済むから。

 

いや、この自分のイライラも良くないのだ。

明らかに態度に出てしまっている。

「これできる?」って聞かれて「あー、出来るんじゃないすか」って答えるのはやっぱアウトだったと思う(別の上司がすぐさまフォローに来た)。

話すと口調がきつくなるのもダメだ(そのため最近机の上にメモを置くようにした)。

 

いやもうこの性格。

気に食わないことがあると態度に出てしまう。

何で我慢できないんだろう。

この仕事のやりづらさは自分が変わればだいぶ軽減されるはずなのに。

 

職場でイライラして帰ると、仕事中離れていた子どもたちがものすごく可愛く見える。

いやうちの子は可愛い。誰が何といおうと可愛いんだけど、この自己嫌悪まみれの自分にとって救いのように可愛く思える。

 

本当は子どもは都合のよい存在ではないのだけど、そう思ってしまう自分の弱さ。

ただ、子どもにくっついていると、仕事で感じたイライラは解消されていくのだ。ヒーリング。

子どもも、まだ親がくっつくのを嫌と思っていない年齢なのでまんざらでもない様子。

ありがとうありがとう。割とWin-Winの関係だと思っていいよね。

 

頑張って変わるよ、私。

せめて態度に明らかに出さないように頑張るよ。

 

でも、そうやってイライラが軽減されても、子どもを抱きしめる時間は減らさないようにしよう。

っていうかしたい。

自己嫌悪とかイライラしてるときの処方箋とかじゃなく、やっぱり子どもとのスキンシップは幸せな時間だ。

 

仕事がうまくいかないもの自分、可愛い可愛い子どもが存在してるのも自分。

結局、今の環境の中でいちばん良いと思われることをするしかないのだ。

 

子ども自身が抱きしめられるのを嫌がる時期が来るまでは、スキンシップの時間はいいことなのだと信じて。

彼らが起きてきたらまず抱き上げることからはじめよう。

明太オムレツがおいしかったんです

金曜の夜、同志だと言ってくれる人と飲みに行った。

(その間家族はサッポロ一番塩ラーメンを食べていた)

 

主婦にとって、居酒屋は頻繁に行けないテーマパーク。

気になっていたけど行ったことのない店で、私が注文したのはナンコツ唐揚げや豚キムチ

定番の居酒屋メニューこそ、普段食べられない貴重なものなのだ。

 

居酒屋で注文する機会があると、つい希望してしまうのがナンコツ唐揚げ。

家でナンコツは扱わないため(私は)、外でしか出合えないという貴重さから手を出してしまうのだ。

 

豚キムチは刺激が欲しかった…から?

ちょうど注文した頃は仕事の愚痴でヒートアップしていたときだった。

それにこれも家で食べることが現在ない。

子どもたちが辛いものが好きでないからだ。

いや、食べたいなら大人用として作ればいいだけの話だが、生憎私はそこまでの丁寧さを持ち合わせていない。

 

テーブルに運ばれてきたナンコツ唐揚げと豚キムチはそれはもうおいしかった。

ただ、それを超えるものに出合ってしまったのだった。

 

一緒に行った人が注文した明太オムレツ。

どんだけたらこ使ってんの?というくらいピンクだった。

もしかしたら照明の関係でそう見えたのかもしれない。

でも、ピンクだと思ったことだけは記憶に残った。

 

食べてみるとトロトロの卵の食感と、たらこの風味が絶妙で幸せな気持ちになった。

ラグビーボール型に綺麗に整えられていて、それもまた「外でご飯を食べている」という感じがして嬉しかったんだろう。

 

話は、現在の話から、相手の昔話、今後の話とまぁ仕事の話がほとんどだったのだけど、今後の話をしたときに一緒に行った人が私の想いを応援してくれてね。

他人にはほとんど話したことはなかったことだけど、話して良かったな、と。

動き方のヒントももらえたしね。 

 

話が盛り上がり、遅い時間に帰ったらもう家族は寝ていて、あとでそっと寝室に行った。

朝起きた時に「会いたかったよぉ」とハグされて、昨日の夕ご飯はラーメンだったよと報告される。

夫がコロッケを買ってやったようで、種類は何にしたでしょうクイズが半分寝ている私の横で開催される。

 

なんて幸せなんだろう。

 

制限はあるし、今後やっていきたいことが生活のメインになることはないだろうけど、この先の進み方というものに少し光が見えた気がした。

いろんな生き方があってもいいよね。

一体誰の子なのか、と感じてる話

保育園に迎えに行ったら、また娘がふざけていた。

 

彼女は、笑わせることが好きのようだ。

いや、笑わせるのが好きというよりも、自分が面白いと思ったことをやってみないと気が済まないタイプなのかもしれない。

 

今日は、胸の前に手をやり、それを両方下におろしながら「パイのパ~イ」とひたすら言っていた。

聞けば、同じクラスの男の子がやっていたそうで、きっとそれを面白いと思ったのだろう。自分発信のギャグのようにやり続け、お迎えに来た子の保護者にそれを見せつけるということをしてたらしい。

あの子のお母さんも、あの子のお父さんも、きっとそれを見せられたのだろう。困惑した顔が目に浮かぶ…。

 

っていうかそのギャグ何?流行ってるの?私が知らないだけ?

 

クラスでもお笑い担当になりつつある娘なのだが、なんでこんなおちゃらけた子になったのか、わからない。

周りから見れば面白いお子さんね、で済むのかもしれないけれど、お下品な言葉を大声で言い続ける子どもの親という立場は少し辛いものがある。

 

娘の後に息子の迎えにも行き、3人で車で帰りながらEテレを見ていた。

カーナビのテレビに映るのは「わらたまドッカーン」という番組だった。

これは、2組のお笑い芸人が小学生の前でネタを披露し、どちらが面白かったか小学生がジャッジするという番組だ。

爆笑オンエアバトルを見ていた世代には少し懐かしさも感じる。

 

今日の出演者はロッチと超新塾だった。

テレビを見ていた息子が超新塾で爆笑している。

「お母さん、これ面白い。面白すぎてお腹がよじれる」

いや、確かにネタは面白かった。でも笑いすぎじゃないか?

 

そうだ、息子はギャグマンガが大好きなのだった。

学童保育に置いてあるマンガを読んで、家で思い出し笑いをするほどに。

 

 そして私は思い出したのだった。

勇気100%の下品な替え歌を作って歌っていた小学生時代、

カラオケで華原朋美を歌う友人の横でひたすら小室哲哉のマネをしてた中学時代、

 ジャンプを読み始めて幕張やすごいよマサルさんが好きだった高校時代、

就活の予定をキャンセルしていつもここからのライブに行った大学時代、

レッドカーペットやエンタは大衆的だから、とあらびき団を見ていた社会人時代。

 

今でこそ落ち着いた大人を演じているが(演じ切れているかは不明)、私の人生は常に自分が面白いと思ったものを披露し、ギャグ的要素の多いものが好きだったのだ。

 

なんでこんなおちゃらけた子に…と娘に頭を悩ませていたが、「なんで」の原因が分かった。私の子だからだ。

 

子育てとは、時に自分の黒歴史と対峙しなければならないときもある。

恥ずかしい自分を自らの努力で軌道修正させてきたけど、本質は残っているようだ。

 

仕方ない、産んだの自分だし。

 

さて、今日の娘はどんなおふざけを見せてくれるのだろうか。